渡良瀬遊水地 | |
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左岸所在地 | 栃木県栃木市・野木町・茨城県古河市 |
右岸所在地 | 群馬県邑楽郡板倉町・埼玉県加須市 |
位置 | |
河川 | 利根川水系渡良瀬川 |
ダム湖 | 渡良瀬遊水地(谷中湖) |
ダム諸元 | |
ダム型式 | 固定堰・遊水池 |
堤高 | - (6.5) m |
堤頂長 | 9,200.0 (2,200.0) m |
堤体積 | 18,000,000 (-) m³ |
流域面積 | 8,588.0 (-) km² |
湛水面積 | 3,300 (450.0) ha |
総貯水容量 | 170,680,000 (26,400,000) m³ |
有効貯水容量 | 170,680,000 (26,400,000) m³ |
利用目的 | 洪水調節・不特定利水・上水道 |
事業主体 | 国土交通省関東地方整備局 |
着工年/竣工年 | 1905年/1989年 |
備考 | カッコ内は谷中湖の諸元 竣工年は全事業の完成年 |
渡良瀬遊水地(わたらせゆうすいち)は、足尾鉱毒事件による鉱毒を沈殿させ無害化することを目的に渡良瀬川下流に作られた遊水池である。
渡良瀬川に思川と巴波川の2つの川が合流する地点の湿地帯全体が堤によって囲われ遊水池となっている。 足尾鉱毒事件の発生当時は、鉱毒対策が目的で設けられたのではなく、洪水防止が目的とされたが、1903年の政府の第二次鉱毒調査委員会が渡良瀬川下流部に遊水池を設置する案を提示したことを受けて造成されており、鉱毒対策目的であることは明白であった。
法令上は、国土交通省が管轄する河川の内部になっている。足尾鉱毒事件から100年近く経った現在では鉱毒は減少し、主に治水と利水のための地域になっている。ただし、減少したのは上流から新たに流れてくる鉱毒の量であって、遊水地の土壌には2010年現在でも銅などの鉱毒物質が多く含まれている。
遊水地の領域は、栃木県・群馬県・埼玉県・茨城県の4県にまたがるが、面積の多くが栃木県の栃木市に属し、残りの部分は栃木県小山市、栃木県下都賀郡野木町、茨城県古河市、埼玉県加須市、群馬県邑楽郡板倉町に属する。
内部の面積は約33km²である。ゴルフ場が造成されている場所があったり、ごく一部に旧建設省の許可を得て耕作が行われた場所があるが、建物はなく、若干の道路と橋のみがある。
最寄り駅は東武日光線柳生駅、新古河駅、板倉東洋大前駅および藤岡駅。
内部に第1調節池、第2調節池、第3調節池がある。渡良瀬川の西側が第1調節池である。第2調節池は巴波川の東で、第3調節池は渡良瀬川と巴波川の北側である。第1調節池はかつてお化け沼と呼ばれ、釣り人に親しまれたが、その後の造成により南側の一部がコンクリート張りの谷中湖になった。現在では、谷中湖を除く第1調節池の大部分と第2・第3調節池は増水時のみ貯水する構造で、平時から池としての実態があるのは谷中湖のみである。
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衛星写真 | 詳細地図 |
足尾鉱毒事件による被害が大きくなり、農民の鉱毒反対運動が盛り上がると、1905年、政府は栃木県下都賀郡谷中村全域を買収してこの地に鉱毒を沈殿する遊水池を作る計画を立てた。ただし、これは、鉱毒反対運動の中心地だった谷中村を廃村にすることにより、運動の弱体化を狙ったものであるという指摘が当時谷中村に住んでいた田中正造によって既になされている。
谷中村は全域が強制買収され、1906年、強制廃村となった。1907年までに立ち退かなかった村民宅は強制破壊された。ただし、一部の村民はその後も遊水池内に住み続けた。最後の村民は1917年2月25日ごろこの地を離れた。
政府は1912年から1918年にかけての工事でこの地を堤防で囲い、遊水池とした。ただし、この場所には通常は水はなく、洪水時に水が貯められる仕組みであった。同時期に川の付け替え工事も行われ、栃木・群馬県境をうねるように流れていた渡良瀬川は、藤岡町(現栃木市)東側を流れるように変更された。
この時代、遊水池の拡張も行われ、旧谷中村以外の下都賀郡部屋村(現栃木市)、同野木村(現野木町)群馬県邑楽郡海老瀬村(現板倉町)、茨城県猿島郡古河町(現古河市)の一部も遊水池の内部となった。
この後、調整池を作る計画があったが、第二次世界大戦により中断。1963年から1998年にかけて、全域を堤防で囲う工事が行われ、第1、第2、第3調節池の3地域に分けるほぼ現在の形となった。第1調整池は1970年、第2調整池は1972年、第3調整池は1997年完成。第1調整池内に1989年、第1貯水池である渡良瀬貯水池(谷中湖)が造成された。
1970年代までは銃猟が規制されておらず、シーズンにはハンターが猟を行っていた。1990年に栃木県側が銃猟禁止区域に設定され、その後、この地での銃猟は行われなくなった。遊水池内には東武鉄道が設置した有料猟場が存在した。この猟場は、栃木県内で最後の有料猟場であった。なお、猟は現在でも可能である。
1988年、渡良瀬遊水地アクリメーションランド構想が発表され、ゴルフ場、オートキャンプ場などを設置した大型公園にする構想があった。しかし、反対運動やバブル景気の終了により、複数のゴルフ場と野球場・テニスコートなどの運動場が整備されたのみで、オートキャンプ場などは着工されなかった。渡良瀬遊水地アクリメーション振興財団は、アクリメーションランド構想に基づく施設を管理運営するために設置された第三セクターである。
[編集] 現在の遊水地
遊水地内には道路があるため、水が貯まっている場所以外は内部に行くことは可能である。
谷中湖の北には藤岡町商工会、農業協同組合が出店しており、バーベキューが行える場所もある。(平日や冬季を除く)ゴルフ場も複数存在する。
ミネソタ花崗岩滝の系譜
レンタサイクルは、道の駅きたかわべ、板倉東洋大前駅東、谷中湖北など4か所にある。(定休日あり。冬季、平日は営業していない場所もあり)ただし、これらの利用されている地域は、渡良瀬遊水地のほんの一部であり、残りのほぼ全域は、未だ自然の豊かな葦原となっている。花火大会などの会場になっているほか、隅を高圧線がかすめる以外は電線もないため、熱気球、スカイダイビングなどのスポーツも行われている。トライアスロン大会も多数開催。
元々は洪水対策目的の施設であり、降雨直後などは、全体が水びたしになる。利根川に流しきれない渡良瀬川の水をいったんこの地に貯め、利根川の水位が下がってから、徐々に遊水地内に貯めた水を放水する仕組みになっている。したがって、降雨時、降雨直後に遊水地内に立ち入るのは危険が伴う。
[編集] 谷中湖
谷中湖は湖底がコンクリート張りの人造湖であり、首都圏の水がめである利根川水系8ダムの1つに数えられ、渇水時に東京地方に水を供給するための貯水池という位置付けがなされている。1976年着工、1989年竣工で、落成直後の1990年夏、谷中湖から放水した時期に下流の水道水が臭いという苦情が殺到した。異臭の原因になるプランクトンを死滅させるために、毎年一度は谷中湖を空にして干し上げを行なっていることや、高度浄水処理の導入もあって、その後、同様の騒ぎはない。この時期はウォータースポーツが行えない。
入漁料が必要ながら釣りができ、非動力船も利用できる。このため、この種のウォータースポーツが盛んであり、第59回国民体育大会(彩の国まごころ国体)でセーリング競技も開催された。
よく、渡良瀬遊水地とは谷中湖のことであると誤認されるが、谷中湖は渡良瀬遊水地内にある第1調節池の中にある貯水池である。また、全体の名前が渡良瀬遊水地で、谷中湖の名前が渡良瀬遊水池であると誤認されることもある。しかし、後述するとおり、渡良瀬遊水地と渡良瀬遊水池は同義である。なお、谷中湖には渡良瀬貯水池という別称もある。
[編集] 遺跡
谷中村役場跡地、雷電神社跡地などの遺跡が、谷中湖北にある。堤防の外側に、谷中村合同慰霊碑がある。
[編集] 年中行事
※ほぼ毎年行われている行事。
どのように湿地を節約することができます
- 1月-4月 谷中湖干し上げ(上記のとおり、異臭の原因になるプランクトンを死滅させるため、谷中湖の水をいったん空にする作業。この時期はウォータースポーツが行えない)2004年〜
- 3月上旬 谷中湖 魚とのふれあい体験(ふれあい移動水族館など/栃木市藤岡遊水池会館前広場)
- 3月下旬 ヨシ焼き
- 4月上旬 藤岡町桜まつり
- 4月上旬 バルーンレース、バルーンフェスティバル
- 8月第1土曜日 古河花火大会(茨城県古河市の渡良瀬川の河川敷にある『古河ゴルフリンクス』で開催される。打ち上げ数は約25,000発(三尺玉3発含む)で約35万人の人出がある。)
- 11月 遊水地マラソン(1986年-2004年。2005年以降廃止)
このほか、自然保護団体などが独自にこの地でイベントを行っている。ヨットレース、トライアスロン大会なども開催されることがあるが、毎年開催されるとは限らない。
人間の活動とは隔離されているため、野鳥が多く、昆虫・魚類なども採取される。希少な植物も多い。環境省のレッド・データブックに掲載された絶滅危惧種も多く発見されている。このため、ラムサール条約指定湿原にすべきという意見もあるが[1]、2006年現在、地元の藤岡町はこの地を本来目的である治水目的に利用することを希望しており、運動はあまり盛り上がっていないが、ラムサール条約登録湿地を増やす議員の会が視察を行った。
渡良瀬遊水地アクリメーション振興財団によれば、レッド・データブック掲載植物は43種。
貯水池以外のほぼ全域が葦原になっている。毎年3月にヨシズ生産農家らで組織される渡良瀬遊水地利用組合連合会がヨシ焼き(野焼き)を行っている。人為的な野焼きで植生遷移が抑制されていることが、結果的に多くの絶滅危惧種が残る理由の1つとなっている。
谷中村村民を移転させる際、栃木県は旧村民に対し、ここでヨシやカヤなどを独占的に刈る権利を認めた。ただし、文書による確認はされなかった。その後、旧村民以外の藤岡町民らが、ここでヨシやカヤを刈る権利を設定。1920年から1921年にかけて、両者が遊水地で睨み合うという騒ぎに発展した(カヤ刈り事件、またはヨシ刈り事件と呼ばれる)。旧村民が弁護士に確認したところ、文書による証拠がなくても、当時の法令では元々旧村民に独占的な権利があることが判明。裁判でもこれが認められた。このため、現在でも近隣農家がこの地に育つヨシを刈り、ヨシズ作りが行われている。ただし、最近は安い中国産のヨシズに押され、生産は減少している。
民間や建設省(当時)の調べによると、土壌中の銅の濃度が作物の生育に障害が発生するといわれる125ppmを超えている地点がある。ただし、特定の地点で目立った植物の生育不良などは報告されていない。
生息魚種は33種生息する。しかし、在来種は20種程度と少なく大半はコイ科である。ブラックバスも昭和40年代後半から移植されているが、固体数は安定している様子で、ルアーで狙って釣るのはなかなか難しい。意外なところでは、ボラやスズキが海から遡上したまま定着している。
この遊水地内は広大なため、他用途への転用を主張する意見が何度かあがった。1952年には保安隊(陸上自衛隊の前身)の演習地に、1962年にはアメリカ軍の演習場にする計画があったが、いずれも反対運動により実現しなかった。1990年には埼玉県がこの土地に空港を作るという構想を立てたことがある。しかし、周辺には旧地権者とその遺族が多く住むため、事実上、利用は不可能になっている。1972年の谷中湖造成時も激しい反対運動がおき、結果として丸く造る予定であったものがハート型に設計変更されるという事態も起きている。
第2調節池内に第2貯水池を造る計画があったが、特に野鳥観察家などからの反対が多く、着工されなかった。このため、当初「第1貯水池」と呼ばれるはずであった谷中湖は、「第1」が外れ、単に「渡良瀬貯水池」と呼ばれている。
しかし、2005年9月、国土交通省は第2貯水池着工の方針があることを表明。これに対し、周辺の自然保護団体などから反発する意見が出ている[2]。
この地域にははっきりとした命名がされず、渡良瀬遊水池または渡良瀬遊水地と呼ばれた。20世紀初期の地図には何も記されないことが多く、最初に公的な地図上で現れた表記は単に遊水池であったとされる(昭和4年修正測図「古河」)。ただし、現在は後者の表記に統一されている。統一されたのは、1987年頃、アクリメーション構想が具体化した頃だとされる。
なお、昭和4年修正測図「古河」より前の1925年、内務省の公文書『渡良瀬川改修工事概要』では、「遊水地」という表記が使用されている。
表記が統一する前につけられた固有名詞に関しては、現在でも表記が混乱している。たとえば、渡良瀬遊水地を管轄する政府の機関は、国土交通省利根川上流河川事務所渡良瀬遊水池出張所だが、実際に管理運営をしているのは渡良瀬遊水地アクリメーション振興財団である。また、渡良瀬遊水地アクリメーション振興財団がある建造物の名前は遊水池会館である。出張所の名前は遊水池だが、国土交通省がこの地域を示すときは渡良瀬遊水地という名称が用いられる。
一部のNPOなどは、渡良瀬遊水地という呼称を使うことに反対し、現在(2006年)も積極的に渡良瀬遊水池という語を用いている。これには、遊水池が設置された経緯を後世に伝えていこうとする意図がある。
[編集] 調節池機能
遊水地内の堤の一部にはあえて低く作られた越流堤があり、増水時には調節池に向けて意図的に水を導き、渡良瀬川の下流で合流する利根川への流入水量を抑えることで、これら下流域での洪水を防ぐ仕組みになっている。
[編集] 参考文献
- 『藤岡町史 資料編 渡良瀬遊水地の自然』 藤岡町 2002年
- 『新・渡良瀬遊水池』 渡良瀬遊水池を守る利根川流域住民協議会 2005年 ISBN 4-88748-127-6
- 末次忠司著、『河川の科学』、ナツメ社、2005年10月11日初版発行、ISBN 481634005X
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